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聖地のクリスマスは控えめに終始

 【エルサレム=RNS・CJC】クリスマスは当然のことに聖地でも祝われる。しかし自ら祝おうとしない限り、また誰か祝っている人を知らない限り、聖地のクリスマスは、そうと気づかれないうちに過ぎて行く。
 イスラエル市民のほとんどはユダヤ教で、そしてパレスチナ自治区ではイスラム教が圧倒的だから、おなじみのサンタクロースでさえデパートの中にしかいないのだ。町中でジングルベルの曲を聞くこともなければ、クリスマスまで後何日とコマーシャルが叫ぶこともない。
 ベツレヘムやナザレのようにキリスト者が多い所では、数千世帯が特別礼拝や、学校でのページェント(野外劇)、コンサートなどでクリスマスを祝うが、それでも西欧諸国に比べれば控えめだ。そうなる理由も現実的なもの。パレスチナとイスラエルとの武力抗争で巡礼や観光客の足が遠のき、その人たちを目当てに生活していた現地のキリスト者の意気があがらないのも当然なのだ。
 大部分がアラブ人の現地のキリスト者は、聖地だけでなく全中東でも少数派。「インティファーダ」と呼ばれる対イスラエル蜂起の前から、現地のキリスト者は存在を目立たせることは避けて来た。
 外国からやって来たキリスト者は、一様にクリスマスの大騒ぎがないことに驚き、ショックを受ける人もいる。しかし聖地のクリスマスの簡素さに気持ちを新たにし、霊的にも深められたと言う人も多い。
 その1人、エルサレム滞在4年目のジェニファー・グリフィン記者(米フォックス通信)は「商売がらみでないことが良い。自分でクリスマスの備えをしなければならないからだ」と言う。米バージニア州アレクサンドリア出身、聖公会に属しているグリフィン氏にとって、聖地でクリスマスを祝うことは「何を買ってもらえるかといった商売がらみのものはなしにして、子どものころの思い出を再創造すること」なのだ。□

KIRISUTO.INFO Last Update : 2003/12/15