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死海文書の真実は?=「クムラン神話」覆そうという動き

 【CJC=東京】死海の西北岸にあるクムランは、ユダヤ教のエッセネ派に属し「クムラン教団」と呼ばれる人々が「死海文書」を執筆した所とされている。
 ただイスラエルの有力紙『ハアレッツ』が、クムランには何ら独特なものはない、と考古学者が主張している、と報じた。
 クムランに住んでいた人々は清貧な生活を送ってもいなければ、死海文書などを書いたわけでもない、と言うのだ。このように「クムラン神話」を覆そうという動きが強まっている。
 考古学者ユヴァル・ペレグとイツハク・マゲン両氏は10期にわたる発掘を終えた。これはエルサレムの「エコール・ビブリーク」の考古学者でカトリック修道会ドミニコ会のロラン・ドヴォー神父が今から50年前に発掘して以来の大規模なもの。
 出土したものの中には、宝石、遠方からもたらされたガラス製品、石造の化粧品容器などがある。ペレグ氏は、「クムランに住んでいた人たちが清貧だったとは言えない。ドヴォー神父がこれらのものを見ていなかったことはありえない。彼はそれを無視しただけだ」と言う。
 クムランが有名になったのは、1947年に付近の洞穴で「死海書簡」が発見されたから。まずエリエゼル・スケニク教授が文書はエッセネ派によって記されたものだ、と鑑定した。51年から56年にかけて、ドヴォー神父が発掘調査を行い、クムランはエッセネ派が周辺の洞穴に居住し、聖典を複写する場所だったと結論づけた。スケニク教授の子息で考古学舎のイガエル・ヤディン氏ら多くの学者がドヴォー神父の意見に同調した。
 死海文書は、イスラエルで行われた考古学的な発見としては最も重要とされている。第二神殿時代(前516〜70年)のものとしては唯一のものであり、当時の慣習などを探るのに重要だ。
 死海文書は、現存する聖書としては最古のもの。
 クムラン教団がエッセネ派に関係していることは、長年にわたって学会で認められてはいるが、不明なことも多い。
 ドヴォー神父が、発見したものについて完全な報告書を出していないことも、理由の一つだ。保存も1カ所で行われてはおらず、所在が明らかでないものもある。
 近年になって、ドヴォー神父が自分の見解にそぐわないものを意図的に隠してしまった、と言う学者も出ている。確かに同神父が担当した第4洞穴関係には公表の時期も含め、不明なことが多い。
 エルサレムにあるヘブライ大学のイツハル・ハーシュフェルド教授は「ドヴォー神父は普通の陶器だけを発見したとする。また七つの儀式用浴槽が出土したことを重視しているが、1カ所から多数出てくることが異例ではないことは、今日分かっている」と言う。同氏が1994年にドヴォー神父やヤディン氏の主張に反論する論文を発表した時に寄せられたのは「冷静な科学者のものというよりは狂信的な支持者からの反発だった」と言う。
 1995年にはシカゴ大学のノーマン・ゴルブ教授が、死海文書の研究が秘密裏に行われている、と批判して学界に波紋を広げた。同氏の主張は、文書はエルサレムの複数の書庫にあったもので、66〜73年の反ローマ蜂起の際に、クムラン周辺の洞穴に隠されたのだということ。ゴルブ氏はその根拠を文書の筆跡が500種類以上にわたる点に置いている。中には当時エルサレムで活動していたグループでエッセネ派とは抗争していたものの手になるものもある、と言う。そういったことが明らかにされないまま封印されてしまったと主張する。
 ハーシュフェルド教授は、出土品は、ほとんどがエッセネ派に関する我々の知見と矛盾していると言う。
 もちろんこういった主張を認めない学者もいる。マエン・ブロシ博士は学者の99%まではクムランはエッセネ派の修道院だったと考えている、と言う。出土品の中で問題とされるものは、元来そこにあったのではなく、エルサレム落城後にローマの守備隊によって持ち込まれたものだ、と考えている。□

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