みんなのキリスト教ニュース - 隠れキリシタン紀行~五島列島編~

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 「今夜のフェリー太古は、台風14号の影響で欠航が決まりました」。

 電話の向こうからは、落ち着いた野母商船女性社員の声が聞こえてきた。丁寧にお礼を言ってから受話器を置くと、私の頭からはスッーと血の気が引いていった。

 今回の旅は、23名の参加者が全国各地から博多埠頭に集合して、今夜のフェリーで五島列島に向かう予定だった。時計を見ると、午前9時半過ぎ。集合時間まで、あと12時間しかない。いったい、今回の旅は催行できるのだろうか。

 今回の国内旅行企画「隠れキリシタン紀行:五島列島編」(2010年10月29日~11月3日 5泊6日)の最大のポイントは、江戸時代以降、文字通り公には姿を見せることがなかった五島列島の「隠れキリシタン」や関係者と各地で交流できることだ。お会いする予定の五島列島に現存する最後の隠れキリシタン組織の最高責任者が、はじめて公に姿を現したのは3年程前。「滅びゆく運命にあるカクレがあるうちに、その姿を伝えた方が良い」と思ってのことだという。とは言っても、今までに、カクレのことを部外者のグループに披露したのは4~5回だけ、マスコミに公開したのはたったの一度しかない。今回お会いできることになったのも、奇跡に近いことだと思った。

 また、五島列島のキリシタンに関わる二つの重要な催事に参加することもポイントだった。一つは、全国でも極めて稀な「キリシタンを御神体として祀るキリシタン神社」山神神社の例大祭。もう一つは、明治元年に、五島列島全島でキリシタン弾圧が行われた際、42人の殉教者を出した「牢屋の窄(さこ)事件」を追悼する「牢屋の窄殉教祭」である。毎年旧暦の9月23日に行われる「山神神社例大祭」と、毎年10月最終日曜日にカトリック教会主催で行われる「牢屋の窄殉教祭」が、一般訪問客の参加しやすい10月30日(土)、31(日)と同じ週末に相前後して行われるのは、約百年に一度の確率でしか訪れない。私は、今まで2回行ってきた「隠れキリシタン紀行シリーズ」のクライマックスを飾る最終回の旅として、この日程で行うことに掛けてきたのだ。

 しかし、同時に、参加者の方々には、「物見遊山ではなく、五島の方々の信仰を真摯な気持ちで尊重しながら参加しましょう」とお願いした。「隠れキリシタン」は、過去の出来事ではなく、信者の方々にとっても、周りの人々にとっても、現在でもデリケートな部分が多いのだ。信者の方々が尊重するものを、部外者の私たちは、「見聞させて頂く」という謙虚な気持ちで臨みたいと思っていた。

 フェリーの運休が決まると、私は、早速、今回の旅に全面協力してくださった「五島地域雇用創造推進協議会 新上五島支部」のサブリーダー、峯昭市氏に電話で相談した。

 同氏から頂いたアドバイスは、次のようなものだった。「今夜は福岡に宿泊し、明朝1便で五島列島南部の五島市にある五島福江空港に飛び、そこから、海上タクシー(チャーター船)で北上して、新上五島町の見学地付近の港に上陸すると良い」。そうすれば、当初予定していた朝食以外は、全て予定通りに行うことができると言うのだ。

 綱渡り的にアドバイス通りに移動することができ、参加者全員が山神神社に着いたのは30日の10時過ぎ。小さな集落にある小さな神社では、既に、例大祭が始まっていた。本殿に向かって礼拝する宮田紀久宮司を先頭に、20人弱の地元のお年寄りが14畳ほどの拝殿部分に座っている。私たちの到着を知ると、地元の人以上の大所帯の私たちを、笑顔で招き入れてくださり、何人かの参加者は立ったまま1時間弱続いた例大祭に参加したのだった。

 祭りと、ドンドコと太鼓を叩いて行う一人神楽、参拝者による参拝が終わると、宮田宮司はこんなことを吐露された。

「前任者からこの神社を引き継いで12年になりますが、ここの氏子さんたちが隠れキリシタンの信仰を今も受け継いでいると言うことを、本日、初めて伺いました。キリスト教と神道が融合した形で、素晴らしいと思いました」

 私たちの祭りへの参加を許可して頂くため、事前に電話連絡をした際、宮田宮司は不思議そうに、「なんで、全国からこんな小さな神社に来るのですか?」と聞かれたのだった。理由を話すと、「隠れキリシタンとは関係がありません」と否定されていたのだ。それが、私たちが来る前に、わざわざ氏子たちに事前調査をしてくださり、私たちの前で詳しく説明してくださったのである。

 「山神神社は、山の神を祀り、江戸中期の1716年に創建。当初480戸あった氏子は、現在では34世帯に激減。ここは、表向きは神道ですが、実は隠れキリシタンの集落で、現在でも納戸にはマリア様を祀っており、葬式の際には、神道の野辺送りとは別に、オラショ(隠れキリシタンの祈り)を唱えるそうです」。

 宮田宮司は、「そこにいる坂井さんが、隠れキリシタンの代表です」と、拝殿に座っていた中年男性を紹介した。しかし、私は、神社では坂井師との会話は避けた。峯氏から、「祭りにはカクレ以外の人も来るので、微妙な問題であるため、カクレのことは質問しない方が良い」とアドバイスされていたからだ。

 祭りの後、昼食に極上の郷土料理を頬張ってから訪れたのは、その隠れキリシタン組織の最高責任者「大将」を務める坂井好弘師の自宅だった。

 山神神社の氏子総代の一人でもある坂井大将は、「宮司さんもカクレのことは知らないのです」と、一言一言、噛み締めるように語りだした。

 「今日、山神神社に集まった人たちの9割はカクレの人たちです。しかし、全員がその先祖をたどれば、皆、カクレですから身内であり、他人はいないんです。旧暦の今日の日が、あそこの神社の祭りになっている。あそこに来た人は、皆、私にお祈りを上げてもらうことを知っているんですよ」と、大将は話を続けた。

「私が祈りを上げるときには、お供え物をする。そこで、皆、魚をこしらえて、早朝、(祭りの前に)うちに来て、私にお供え物を渡すんですよ。それを、家内にお煮染めとか、ツボとか、吸い物とか、お刺身とかにしてもらい、お供えをするのです」。

 私は確認のために質問した。

「そうすると、祭りでも宮司様が各個人のために祈祷をされていましたが、あの祭りに参加されたカクレの方にとっては、大将に祈って頂いたことの方が重要なのですか?」

「そうです」。きっぱりとした大将の答えに、居間に立錐の余地もなく詰めて話を聞いていた参加者たちからは、感嘆の大きなため息が漏れた。

 「例えば、お葬式でも宮司さんが来るんですよ。しかし、それは見た目であって、その前の日に、(亡くなった人の家で)私が3時間ぐらいお祈りするんです。お葬式の日だけは、人が来るので、隣のカクレの家を借りて行うんです。

 私たちは、仏教徒と似たところがあって、初七日、二七日と言って、四十九日まで、その家でお祈りをするんです。しかし、お祈りの時は、当主だけは私の前に座らせますが、他は誰も部屋には入れません。お祈りが終わると、私と当主がお供え物とお神酒を頂きます。主立った信者が亡くなった場合は、私たちだけの暦(五島のカクレが使用している「バスチャンの日操り」と呼ばれる教会暦)があって、それを着物の中に入れて持たせてあげます。それは、死者が四十九日目にイエス・キリストに会った際に渡してもらう、私たちからのお土産なんです」。

 カクレの人たちは、キリスト教禁教令が公布され、潜伏せざるを得なかった江戸時代そのままに、禁教令が解かれて138年たった今でも、「密にして」儀式を行っていたのだ。そして、彼らにとっては、表向きの神道ではなく、カクレの信仰こそが真の信仰なのだった。

asahi.com(朝日新聞社) 2011年2月4日


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