みんなのキリスト教ニュース - 香山リカのココロの万華鏡:答えは見つからない

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 日本に住む少女が、イタリアのテレビ番組でローマ法王ベネディクト16世に質問した。「どうして、日本の子どもは悲しい思いをしなければならないのですか」

 それに対して法王は、こう答えたという。「私も同じように『なぜ』と自問しています。答えは見つからないかもしれません」

 もちろん、法王は「わからない」で答えを終えたわけではなく、「神や私たちは日本の子どもとともにある」と少女を励ました。

 私は実際の番組を見たわけではなく、新聞の記事でその部分を読んだだけだ。ただ、「自問しているが答えはない」という率直な回答には驚いた。全世界のカトリック教徒の精神的な指導者であるローマ法王が、「答えはないかも」などと言うとは思っていなかったからだ。これに先立つ「日本の少女が法王に質問の予定」という記事を見たとき、私はひそかに「聖書に言葉やエピソードをうまくたとえ話として使いながら答えるんじゃないかな」などと予想していた。

 「答えは見つからない」と答えるのは、とても勇気がいることだ。とくに責任ある立場にいる人は、どんな質問にも即座に答えなければならないと思っていて、とにかく何か明快な回答を出しがちだ。しかし、私たちの人生には、答えがあることよりもないことのほうがずっと多いのではないだろうか。私も診察室でよく「どうしてほかの人ではなく、この私がこんな病気になったのでしょうか」ときかれるが、本当はそんな問いに答えなどあるわけはない。「どうしてなんでしょう、私もわかりません。世の中は理不尽ですね」と言いたくなるが、心のどこかで「それはいけない」と思い込んでいて、つい「仕事のストレスでしょうね」などと意味のない一般論を返してしまう。

 今回の震災では、何百万人もが「なぜこの地域だったの? なぜ私だったの?」と誰かに強く問いたくなったであろう。それに対して、「この地方は歴史的に津波が多くて」などと一般論で答えても、誰も納得はできない。いや、みんながうなずける理由などあるわけはないのだ。「なぜなんでしょう。どうしてもわかりません。でも私も考え続けます」

 「答えは見つからない」と答えられる率直さと、「考え続ける」と約束する粘り強さを、私も忘れないようにしたい。

 でも、患者さんたちからは、「今さらなに言ってるの? 先生はいつも“いやあ、わかんない”ばかりじゃない」と言われるような気もするが。

毎日jp(毎日新聞) 都内版


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