みんなのキリスト教ニュース - 内村鑑三 手紙に優しさ - 佐賀

logo


1
 キリスト教思想家の内村鑑三が、佐賀出身の葉隠研究家の栗原荒野(あら・の)に宛てた手紙が、栗原の遺族の元に残されていた。研究者は「内村の意外な一面をうかがい知る貴重な資料」と評価している。

 手紙を保管しているのは荒野の息子の栗原耕吾(こう・ご)さん(79)=佐賀市。荒野は1886年、現在の唐津市浜玉町に生まれた。大阪陸軍幼年学校に進んだが軍国主義になじまず、トルストイの「非戦論」に共鳴して中退。21歳で上京して明治学院神学部に入り、賛美歌「荒野の果てに」にならい「荒野」と改名した。

 内村の手紙は1908年10月23日付。内村が創刊した学術雑誌「聖書之研究」に投稿を試みた荒野への返信とみられ、内村は長さ75センチほどの和紙に力強く筆を運び、「御寄贈文正に落掌仕(つかまつ)り、小生も之(これ)に由(より)て大変慰藉(い・しゃ)を蒙(こうむ)り候 必ず次号に掲載仕(つかまつ)るべく候」とねぎらいの言葉をつづっている。

 内村を研究する国際基督教大の千葉眞教授(政治思想史)によると、荒野の文章が掲載された事実はない。「一介の書生の熱意に感じ、おだててやったのでは。相手を選ばず丁寧に返事をくださる、内村先生の温かい人柄が分かる」と耕吾さん。千葉教授は「お世辞を言わないと評判の内村の意外な側面が表れ、興味深い」と話している。

   ◇

 荒野はその後、白樺派を代表する武者小路実篤にも傾倒。キリスト教思想に深く影響された武者小路が宮崎に建設した理想郷「新しき村」の佐賀支部を作ろうと、1921年11月、武者小路を佐賀に招いた。

 武者小路は少なくとも5日間滞在し、文学愛好者らと交歓。翌12月、荒野に届いた礼状も耕吾さんが保管している。「新しき村出版部」の印字がある原稿用紙に、「君たちの御かげで万事好都合にゆき氣持ちよき日を送ることが出来たことをうれしく思つてゐます」と記述。封筒の裏には「日向國兒湯(こ・ゆ)郡木城局區内 第一新しき村にて」とある。

 結局、佐賀支部は実現しなかった。木製の表札だけが栗原家に残っている。

   ◇

 荒野はその後、内村や新渡戸稲造らキリスト者にも影響を与えた武士道に触発され、佐賀発祥の武士道「葉隠」の研究に没頭する。当時、日本は軍国主義に染まっていた。「武士道といふは、死ぬ事と見附(つ)けたり」の一節が持てはやされ、荒野が著した「葉隠の神髓」「校註葉隠」は飛ぶように売れた。

 そして敗戦。葉隠は「民主主義の敵」とされ、戦犯扱いの荒野の著書は焼かれたという。一家は赤貧を極め、耕吾さんの母テルさん(故人)は知人を訪ね荒野の蔵書を売り歩いた。だが書簡は、76年に89歳で亡くなるまで、荒野が終生大切にしていた。耕吾さんは「時代の波に翻弄(ほん・ろう)された父にとって、古き良き、平和な時代の形見だったのでしょう」と話している。(谷川季実子)

asahi.com:2011年05月08日


コメント 推薦者 関連リンク



Powered By Pligg            | サイトポリシー | サイト運営者情報 | お問い合わせ |            キリスト教の検索 なら「 KIRISUTO.INFO